西行法師終焉の地という西行庵。
お話をお聞きすると、
なかなか複雑な歴史を辿って来て今に至っているようですが、
ご当主からその概要をお聞きし記憶したはずが、
書き始めてみて、
歳のせいなのか、話が複雑だからなのか、曖昧な部分が多く、
間違った情報を流してもいけないので、
私は深くは書かないことにします。
ご興味のある方は見学に行ってお話をお聞き戴くか、
ホームページでご確認くださいませ。
で、今回の見学の目的であるお茶室・皆如庵ですが、
↑ の複雑な歴史をたどりながら、
最終的に近年ようやくたどり着いたのが、
高山右近がバテレン追放令で失脚したのちに茶頭として前田利家に仕え、
家康のキリスト教禁止令までの25年間居を構えた
加賀の屋敷内にお茶室を隠れ蓑に建てた礼拝所の移築である…ということらしいです。
ね、複雑でしょ?…というか、
結びつきようもない結末…というか。
小説よりも奇なり…というところかと。
で、このお茶室、特徴的なのは、

①床正面の円窓に円窓があること。
これは、光そのものに神の存在を感じ、祈りをささげていたとのこと。
例えば、普通の住宅なら床の間に飾り物をしないという選択肢もありますが、
お茶室とすると、普段は別として、お茶会、お茶事の際には必ず飾り物が飾られるはず。
その時、床の間正面からの光を入っていると、飾り物が陰になり現実的には床の間として使い物にならない。
左側壁に掛物を…とも言われていたように思うが、
残月のような大きな床ならまだしも、台目床でそれはあり得ない(と思う)ので、
これも現実的ではない。
考えられるのは、主として別の機能があったのか?…となるが、
それが、いろんな弾圧があった中で、
光そのものに神を感じ、
薄暗い部屋の中で、
この窓から射す光に祈りをささげていたとしても何の不思議もない。。


↑ の写真で、左から貴人口、躙り口の上に連子窓があり、一番右の下地窓が風炉先窓。
②普通矩折りに配置されるべき躙り口と貴人口が並列していること。
これは、神の元での平等を表現しているらしい。
この貴人口と躙り口の並びというのは、
矩折りの位置の貴人口と躙り口というのを頭に入れていても入れていなくても、
三畳ぐらいのお茶室で躙り口と貴人口を並べて配置するということが
物理的にそれなり条件が整わないと難しいので、
あまり意識しなくても、必然的にそうなってしまうことが多い。
それなら…ということで、
貴人口と躙り口の配置は必ず貴人口の方が上にあるのかな…と思って、
いつくかの茶室のプランを調べてみたが、
そうなっているところが多いがそればかりではないようだったので、
必ずそうだ!と言えるレベルではない…と思う。
ただ、そうなっているところが多いというのは、
プランを考えた人はそれなりに意識していたのかもしれない。
でも確かに、こんな風に横並びで写真に写る貴人口と躙り口は見たことがない。
私が一つ考えたのは、
せっかく貴人口と躙り口を横並びにしたなら、
床の間の左側の壁には窓はなくしてしまった方が、
邪魔な光がなくなって光が丸窓に集中し、
より象徴的な「光」になったのではないか…と。
今あるものを見ての妄想だし、何のしがらみもない状態での考えなので、何でも言えますけどね。


③道安(宗貞)囲いの点前座であること。
右近はなぜ道安囲いを採用したのか?
これは利休切腹後金森可重・重親(のちの宗和)のもとに身を寄せていた道安を加賀に招き、
利休の追善供養の茶会を催した際に道安から伝授されたと口伝で伝わっており、
右近はカトリック礼拝に不可欠な懺悔室と見立てて重要視していたとのこと。
懺悔室に適しているかどうかはその道に詳しくはないので私には判断できませんが、
もし伝わっているように、
道安に伝授されてこの道安囲いといういわば特殊な点前座を採用したということは、
それなりに懺悔室に適した部分を見出していたのだろう。
以上が礼拝所として使っていたであろう特徴。
もうひとつ、
室内入隅の随所が塗り回されていたのが、礼拝所とは関係ない特徴。
理由はわかりません。
高山右近…と聞くと、
北大阪の人間には多少の親近感もあり、
熱く語るご当主のお話にしばし耳を傾けさせていただきました。
長時間お邪魔し、堪能させて頂きました。
ありがとうございました。
コメントをお書きください