圧倒的というのではないけど、
なんか引き寄せられる。
ともすれば、直線的な現代建築が、
人と一線を画している…かのように硬くて冷たい雰囲気を醸し出しているのとは正反対の、
優しさ…というか、親しみやすさ…というか、そんな雰囲気を、近づけば近づく程、感じる。
そんな風に感じるのが、
この建築を見に来た私だからなのか、
誰でもそうなのかはわからないけど…。
久しぶりの村野建築。
そういえば、最近村野建築をあまり見てなかったな…と。
ここは、たぶん二度目。
前に来たのは、学生時代。
いや、
卒業して、仕事を始めて、一年目か二年目ぐらいだったかも…。
いずれにしても、もう40年近く前なので、
来た時のシチュエーションは、はっきり覚えていない。
でも、建築は覚えている…つもりだったが、
少し印象が違った。
外観がもう少しだけ色がついていた印象…。
壁面のグリッドとレンガのコントラストが、
もう少しはっきりしていたような…。
時間の経過でそうなったのか、私の記憶が怪しいのか…。
でも、一つ言えるのは、
いまがこうなんだから、どっちでもいい…ということ。
それと、
人の記憶というのは、実にいい加減なもんだということ。
でもね、この外壁の表情はしっかりと覚えている。
大きめの目地、レンガの凹凸など、
表情がすごくやわらかいなぁ…って感じた。
たぶん、こういうところが、
↑ に書いた直線の建築とは明らかに違う微妙な違いで、
表情が違って見えるところ。
村の建築の全てがそう…というわけではないけど、
村野建築で感じる独特の雰囲気でもある。
今は、この建物の廻りには、
この教会関連のいろんな建物が建っている。
当時あったかどうかは全く覚えていない。
でも、もっとこの塔が目立っていたような記憶があるので、
廻りには何もなかったんじゃないかな?…という、
いい加減な記憶が主張してくる。
ただ、塔が目立っていた…という印象が強いだけなのに。
でも今回も、
この塔が見えた瞬間から、
引き寄せられるような気持ちになった…気がした。
それが冒頭で書いた感覚。
この塔は、
強く主張している訳ではない、
控えめなのに、
存在感を感じる。
それは、昔の記憶も同じ。
だから、塔がもっと目立っていたという記憶なんだと思う。
「ご自由にお入りください」
…の文字を見て、
小さくなって中に入れて戴く。
一応、部外者なので…
聖堂。
内装のあっさりした印象に、
ステンドグラスを通した光が、より引き立つ。
静かで、
ひんやりしているが、
冷房が入っているわけではない。
この涼しさを感じて、
あ、引き寄せられたのは、酷暑のせいか?…と頭に浮かぶ。
短絡的で、邪念だらけ…の私の頭が考えたことに、
私自身が思わず…あほか!と突っ込んでしまう。
ひとりの欧米人が、
見学されていたのか、
空間を感じていたのか、
お祈りに来ていたのか、
目を瞑って、聖堂の真ん中ぐらいの席に、長い時間座っておられた。
私も真似て、邪魔しないように、一番後ろの席に座ってみた。

すずしさに、体の温度が落ち着いていき、
それに伴って、
壁面のすっきりした質感と形の明瞭さが生み出す、
全体のあっさりした雰囲気に、
徐々に、気持ちも落ち着いていく…感じがした。
機械的ではない、自然な涼しさが心地いい。
空間の質が日本的だな…と思った。
たぶん、気のせい。
そんなに敏感な私ではない…はず。
聖堂に入った瞬間は、特別な印象がなかったけど、
じわじわと心地良さが湧いてきた。
あの欧米人もそれを感じて、ずっと瞑想に耽っていたのかも…。
そういう方だから、
私一人が、
知らない間に随分離れた後ろに座っていても、
何も気にしないんだろうけど、
やっぱり、邪魔をしたくないので早々に退散。
誰もいなければもう少し座っていたかもしれない。
でも、あの方がいなければ、座らずに帰っていたかもしれない。
だからこそ…。
もう少し長く座っていたら、
別の感情が沸いてきたのかもしれないけど、
今日という日に、あそこに座って、
湧いてきた気持ちを感じ取れたことだけで大満足。
たぶん、こういう印象って、
たくさんあっても、
比較的強い印象の一つか二つしか覚えてないんですよ、
40年後なら確実に。
そんなに時間が経ってないくてもね。
だから、強い印象が一つあれば十分なんです。
別の印象はまた次の機会に…。
次の機会がまた40年後だとすると、
もうないかもしれないけど、
今回は、
心地よく良い空間体験をさせていただきました。
40年前は、若さに任せて、明らかにガツガツと建築も見ていました。
40年経って、ガツガツ見る年でもなくなって、
明らかに見方が変わっています。
そう考えると、
私の40年後の建築の見方は、
どうなっているんだろう?
そんなことにも、少し興味はありますけどね…。
ありがとうございました。
コメントをお書きください