小間茶室においては、光の差し込む量が少なく、かつ、小さな空間故に、差し込む光の方向が座る場所によって明らかに違って見え、それによって景色が変わり、印象も異なるのは当たり前。小さい空間だからこそ、光の方向にはこだわるべき…であることは承知しています。ただ、茶室内部に届く光は、簾の隙間と下地窓あるいは連子窓と障子をかいくぐって来た弱めの散乱光が多い。光の方向を思い通りに操るのは容易なことではありません。
濃茶の後半で張り詰めた空気や緊張感から徐々に解放されてはいるが、もっと一気に解き放ってもらうために、薄茶は開放的な広間へ移動していただく。
小間だけで薄茶までを終えるのが本来だと思います。その方が茶事らしい…と常々思っています。ただ、そこにはいろいろな考えやその時の事情が影響する…はず。今回の場合は、茶会に似た楽しく開けた薄茶席にしたいから薄茶は広間で…。それも十分に説得力のある理由。食事を小間で終えているなら、小間茶室による茶事の演出は、濃茶までの一連の流れで一応達成できている…はず。だから薄茶は、濃茶の流れでそのまま小間でもいいし、広間で一気に解放してもいい。その二つの選択肢があってもいいと思う。だけど、今回はそうではなく、食事で広間を使い一旦客の視野を開いているのだから、薄茶も小間で…に拘る理由には乏しい…と私も思う。あ、これはの茶室の効果から見た考え方です。茶道からみたら、また違った考えに至るのかもしれません。
広間の景色では視界が広がり開放されているため、席によって大きな違いを感じることは少ない。濃茶の緊張感と小間の薄暗さから解放され、加えて、小間の閉塞感からも開放されて、自然と歓談が弾むのが薄茶の席。この濃茶と薄茶の場の雰囲気のギャップも、客の楽しみのための演出の一つ。
薄茶と歓談を楽しんだ後、散会。
通常なら最後に寄付待合に戻るので、その準備が必要。でもこの日は、寄付待合と広間は同じ部屋で、使い方を変えただけ。だから、最後の待合の準備は不要。そのまま薄茶席で散会…。
お疲れさまでした。
客がお帰りになったあと、一休みを兼ねて、内輪で濃茶を一服。
そして、
最後に残るのは、閉園時間を過ぎても続く怒濤の片付け…。
公園の担当者の方、ごめんなさい。
最後に、ちょっとばかりの私の妄想を追記。
一般的な茶事は、濃茶までは徹底的に俗世間と隔絶された「茶室」という小さな宇宙…というか、次元の違う世界で展開される。この世界に入ってしまうと、たった数センチの厚みの壁一枚、障子一枚向こうの外部空間への意識が消え、本当に俗世間と隔絶された別世界に居るような錯覚に陥る。そんな錯覚に陥るような演出が、茶室の空間性や光の操作、茶事の流れの中に仕込まれている。そして、そんな流れで展開された茶事の最後である薄茶の席は、その異次元の世界から徐々に現実へと引き戻すための場である…と考えることが出来る。そう思っている。濃茶の前半で緊迫した空気と緊張感が最高潮に達し、中盤からの亭主と正客の型通りの会話で解放に向けた空気が動き始め、後半に向けて徐々にその緊迫感と緊張感が解放されていく。薄茶でさらに解き放たれた気持ちが、最後に躙り口から出ることで一気に解放され、視界が開放される。この最後に躙り口が、空間の最後の仕掛けであり、かなり重要かもしれない…と思っている。加えて、躙り口を出た後に露地を通るのも、少しずつ遠ざかる小間茶室という別世界と陽が落ち始めた露地の朝とは全く異なる表情が、惜別の情を掻き立てる演出の一つになる…とも。
これらの空間的な仕掛けは、ほの暗い小間で食事を摂ることで、無意識のうちに、凝視する力と集中する力が形成されていることが必要であり、それが次の濃茶の緊迫した空気と緊張感に繋がって、はじめてうまく作用する。そうでないと効果は半減しそう。また、徐々に解放していくとはいえ、躙り口での効果的な解放感と開放感を得るには、小間での薄茶で抑え気味に解放することも大事な要素となりそう…。
最近では、最後まで小間に居て、躙り口から出て散会…というのが減って来た気がしていて、最後は広間から…とか、お帰りは中からどうぞ…というのが増えてきた気がする。ちょっと残念だが、まぁ、諸先生方もお年を召した方が増えているし、お酒が入っていると飛び石って結構危険だったりするので、仕方がない。
最後に躙り口を使わないなら、一気に解放され、開放されるために、広間の開放感を利用するのは実に効果的な方法。ただ、小さい躙り口から出る時の神秘性というか、特殊性みたいなものは確実に薄れてしまうが…。
ここまでは建築と茶事の演出からの仕掛けだが、実は、それだけではこの茶室の「宇宙」を感じ取ることはできない。根本的なところで大事なこと、それは、理屈ではなく感覚的なものだから、受け取る側が考えるのではなく感じる事。茶室に入る前に心を整え、五感を鋭敏にして感じることが出来て初めて、次元の違う世界に没入できる。そう、没入しないと感じ取れない。白湯がなくても心を整え、知覚を鋭敏にすることができる人は良いが、そうでない人にとっては、ここで白湯が効いてくる。私はそう思っているのですが、ここは個人差があるかもしれない。白湯があっても心が整わない人…は、私にはわからないのでご自分でその方法を探してください。
毎度毎度、茶事の度にこんな妄想を繰り返し、いつも思うことは、やっぱり小間茶室は、全てのエレメントが茶事をするために備えられた、小さいけど贅沢で特別な空間なんだな、と改めて…。
最後の話は、お茶事に参加するごとに妄想を重ねて来た私の、現時点での勝手な解釈だと思ってお読み戴ければ幸いです。
この度、このような機会を戴けたことに感謝いたします。
ありがとうございました。
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