昨年、茶杓を削る機会を戴いた。
初めて削る茶杓だから、奇をてらわない形で、
なんとなくこれいいな…と思えるぐらいのものがいい。
…とはいえ、その中でも少しだけこだわりを込めたい。
つい、そんな面倒くさいことを考えてしまう。
そんなことを考えながら削っている自分に対して、
なにを造るにしても、この姿勢は変わらないのかも…と思いながら(苦笑)
まずは、
槐先をすでに曲げてある竹を選ぶのだが、選ぶのがまたかなり難しい。
自分のイメージに近いものになるのはどの竹なのか?
ぶつ切りで、先を曲げてあるだけの竹を見ても、できあがりまでは想像が出来ない。
でもここは、自分を信じて選ぶほかない。
色柄はまずは「奇をてらわない」を優先する。
ここは簡単。
次は形。これが問題。
少し樋があって、
「掬う」という行為に対する機能的な形を、
わからないなりに、慎重に選ぶ。
で、選んだあとは、削り方を少々教わり、あとはひたすら削る。
最初は慎重に、
だんだん勝手がわかってきて、
慎重にばかり進めていると作業が進まないことがわかり始めたら、大胆に。
そして、また慎重に。
この作業で、私が選んだ竹で、私の削り方で二時間強。
場合によってはもう少しかかるのかもしれないが、
気が付くと二時間強。
久しぶりに、そんな時間の流れに遭遇した。
廻りの人と少々の会話はあったかもしれないが、
私の場合はあったとしても、たぶん二言三言のみ。それも覚えていない。
気難しそうな奴がひたすら削ってる…と思われていたかも。
ただただ手元の小刀と紙やすりに集中する時間。
よく考えたら、ここまで集中した二時間って久しぶりなのかもしれない…と、
無心に削り続けた時間を思う。
送る側の都合のみで情報や連絡を受け取らされてしまう現代。
受け取らなければいいんだけど、そういう訳にはいかないものもある。
それに振り回されている部分もあるから、
そんなことをすっかり忘れて、
子供の頃に、
何の目的もなく絵を描いたり、
突然思い立って工作したり、
プラモデルを作ったり…と、
無心になって何かを作り続けていた時間を思い出す。
そうだよな、我々の子供の頃って、
電話以外に、
受ける側の都合に関係なく情報が届けられるものってなかったから、
集中しようと思えば、いくらでも集中できた時代だった…気がする。
子供だったからなのかな?
いや、ほんとは、いまもそうなんだろうと思う。
そんなことも忘れてしまうほど、
いろんなものが勝手に、どんどん入ってきちゃうから、
それに流されてしまう。
昔は意識して受け取ってたけど、
今は、意識して受け取らないようにする時代ってことですよね。
新しいものに飛びついたり、
付いていくことにも難しさ…というか、面倒くささを感じ始めている年齢でもあるので、
排除すべきものを増やしてもいいのかも…と思ったり。
出来るのかな?
出来るよね…たぶん。
茶杓を削った…のは一つのきっかけであり、
形にはならない "なにか” を思い出させてくれたいい機会となったようです。
ここ数年、
何かを自分で作りたい…っていう衝動が心の中を渦巻いているのは、
そういう気持ちを思い出せ!…と諭されているのかも。
誰に?
知らんけど…
ありがとうございました。
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